学びて然る後に足らざるを知り、教えて後に究めざるを知る。


 わが師、亀石突風先生の著述の中に、次のような古戒語録があります。


 「人にして学ばざれば憂いなしと雖(いえど)も、禽(きん)たるを如何(いかん)せん。」
−勉強せずとも喰っていけさえしたら良いとしても、それでは本能のおもむくままに自分中心に気儘に生きているのと同じで、ときには社会の規律を破ったり法律に違反するなど、どんな行動にでるやらしれたものではない。まるで鳥や獣と同じではないか−

 
 もちろん、ここでいう〝勉強〟は実学(一般的な仕事上の勉強)のことではありません。
 自己の魂を錬磨し、より人格を高めるための勉強のことです。
 鳥や獣は本能のまま生きていますが、人間には反省し、改めるという美徳が誰にも備わっているはずです。
 折角、人間として生をうけたのに人間にしかできないことをしないと、次の世も人間として生まれ変わることができるか・・・?
 不安な方は自分にあったものでよいので、心の糧になる書物を読みましょう。


 もうひとつ、ご紹介します。


 「学びて然る後に足らざるを知り、教えて後に究めざるを知る。」
−学べば学ぶほど自らの無知を悟り、実学から形而上学(真理を学ぶ学問)に進むだろう。そして次はそれを人に教える段階になると、前者以上に自分の不勉強さや無力さや至らなさに気付かされ、他人に対しても自然に対しても謙虚になり、慎ましやかな生活に至るなどの難しいことが分かり、より充実した人生が送れるようになる−


 わたくしが四柱推命紫微斗数の教室をしているのも、もとは亀石先生より一人でもいいから四柱推命を教えることを薦めて頂いたからです。


 最初は、教えるというのではなく、自分が修得したものを人様に伝えるということしかできなかったように思います。
 いまでもまだまだ〝教える〟という域には達していないと思っています。
 四柱推命のような学問は、単に教えるというのではなく、〝教化〟や〝教導〟まで含んだ教えでなくてはならないと思うからです。


 四柱推命は生涯の勉強であるというのは、もとより難しい学問であるからですが、それにもまして、ときには人様の魂の優劣までも云々する学問ですから、真摯にこの世の仕組みや法則、つまり神理を学ばなければそれを教える資格はないと思っているからです。