幸と福
安岡正篤先生の「安岡正篤一日一言」(致知出版社)に次のようなことが載っていました。
『「さいわい」にも幸と福と二字ある。学問的にいうと、「幸」というのは
幸いの原因が自分の中にない、偶然的な、他より与えられたにすぎない
幸いを幸という。たまたまいい家庭に生まれたとか、思いがけなくうまい
めぐり合わせにぶつかったとかいう、これは幸。これは当てにならない。
そうではなくて原因を自己の中に有する、即ち自分の苦心、自分の努力
によってかち得たる幸いを「福」という。福という字がそれをよく表しておる。
示偏(しめすへん)というのは神さまのことだ。示というのは上から光が
さしている、神の光、叡智の光を表す。旁(つくり)は「収穫を積み重ねた」
という文字だ。農家でいうならば俵を積み上げるという文字。神の前に
蓄積されたるものが「福」である。』
わたくしたちは、幸福という文字をよく用いますが、幸福にはふたつの意味があるのをはじめて知りました。
しかし、幸と福の意味が違っても、どちらもわたくしたちには有り難いものです。
ところで、安岡先生は、幸は当てにならないとおっしゃっていますが、わたくしは幸は神様からのご褒美ではないかと思っています。
偶然はないのがこの世で、すべて必然の世界です。
「蒔かぬ種は生えぬ」、「因縁因果の法則」が厳然として存在するのがこの世です。
ですから、愛情の厚い両親の下に生まれたのも、お金持ちの家に生まれたのも、あるいはそうではないのも、偶然ではないと思います。
以前のブログで、真・善・美は不滅であり、美容整形までして美しくなりたいと努力した女性は、次の世、生まれ変わったときは美人に生まれると申し上げました。
同じように、愛情の厚い子供思いの両親の下に生まれたのは、前生、自分が親孝行だったからです。
金持ちの家に生まれたのも、前生、世のため人のために施しをいっぱいしたからだと思います。
このように考えると、幸も自分の努力の賜物と考えられなくはありませんが、わたくしはあえてそれは神様からのご褒美だと思いたいです。
ですからご褒美はご褒美で有り難く受け取って、それに甘んじることなく積福のための努力をすることが大切で、そうすれば今度はさらに素敵なご褒美を神様から頂戴できると思います。