心(精神)を鍛えるとは
身体を鍛える人は多いが、心(精神)を鍛える人は少ないといわれます。
散歩、ジョギング、フィットネスクラブ、ゴルフ等々、健康のためあるいは体力の維持向上のための努力は多くの人たちが行っています。
でも、心は目に見えないものだけに、自ら進んで心を鍛えようという人は少ないように思います。
ところで心を鍛えるとはどのようなことなのか、そしてどうすればそれを実行できるのか?
これについて少し考えてみたいと思います。
一般に心を鍛えるとは、忍耐力や根性を養うようにとられがちです。
かつて、NHKの朝の連続TV番組で、「おしん」という根性もののドラマがありましたが、高視聴率で海外にもこの番組は輸出されたということですから、日本人だけでなく外国の人も我慢することや耐えることは美徳だと思っておられる方が多い証左ではないでしょうか。
わたくしも忍耐心や辛抱することの大切は重々承知しているつもりです。
四柱推命でも、人の精神的な強さをまず第一に調べますが、そのときに忍耐心や包容力のある強さを重視してみていきます。
忍耐心は美徳、長所のひとつには違いないと思いますが、人間の長所はそればかりではありませんし、長所も過ぎれば短所になり、短所も視点を変えれば長所にもなり得るものです。
ところで、以前のわたくしのメルマガで、
『悟りということは、いかなる場合にも平気で死ぬることかと
思っていたのは間違いで、悟りということはいかなる場合にも
平気で生きていることであった。(正岡子規の「病床六尺」より)』
と、ご紹介しました。
いついかなるときも平気でいられるという人ほど、心の強い人はないですね。
平常心といっていいかどうかは分かりませんが、いまは適当な言葉が思い浮かびませんので、このような心の強い人を平常心に富んだ人ということにします。
精神力が大事であるとか、忍耐心が必要だとか、根性は美徳だとか、そのように思ったり唱えている間は、どうも〝心〟がそれにとらわれているように思います。
耐えなければならないとか、耐える努力が素晴らしいとか、一種の社会規範に拘束されている自分の心がそこにあるように思います。
どのような状況下にあっても、いま、自分がなすべきことを淡々と実行できる平常心を持った人、これが本当に心(精神)の強い人というのではないでしょうか。
このような平常心は、ひとつの悟りの境地ともいえると思いますが、一神会の御神言にも、
『幸せは 悟りしだいの 受取りしだい
苦労難儀も楽しみに 変えてしまうが 悟りの力』
とあります。
〝悟り〟とは何か?
どのようにしたら少しでも得られるものなのか?
得たいと思っても得られない、智慧のように授けていただくものなのか?
・・・
等、続きはまた後日(時間がゆっくりあるときに)、いまのわたくしの考えを整理してお伝えしたいと思います。