わが祖父、下田益三

 昨日は名古屋能楽堂を訪ねました。
 とても立派な能楽堂です。


       
                 <名古屋能楽堂前にて>


 名古屋城の正門前の広々とした落ち着いた環境のところにあり、さすが尾張名古屋は芸術文化に力を入れているところだと感心しました。


 いま、この能楽堂で、わが祖父、下田益三とその子(私の伯父)下田雄三が収集、書写した能楽に関する貴重な資料が展示されています。(1月31日まで開催)
 ●名古屋能楽堂
 http://www.bunka758.or.jp/scd24_top.html


 展示品の中には、本阿弥光悦の謡本(原本)や、昨年の12月28日の中日新聞で紹介された「能面打略系」(能面120種類の髪や目の描き方、特徴をスケッチ入りで25ページにわたって詳述)などもありますので、能楽にご興味のある方は一見の価値はあるかと思います。


       
                <2011.12.28 中日新聞掲載記事>


 さて、実は、下田益三は、わたくしの父方の祖父です。
 昭和6年に44歳で早世。したがいまして、わたくしの父もまだ5、6歳であったので、益三の生前のことについてほとんど父から聞かされたことはありませんでした。
 昨日はいろいろな展示品を見て、あらためて祖父、益三が能楽に強い情熱を持っていたことを知り、感慨もひとしおでした。


 元々、下田家は、先の中日新聞の掲載記事を引用致しますと、『下田家は江戸時代、雲州松平家、因州池田家など山陰地方の大名の御用廻船問屋を務めた大阪屈指の豪商。益三はその当主だったが、能楽師に転じた』とあります。


 父方の親戚からは、下田の家は江戸時代にはかなり手広く商いをしていたと聞かされていましたが、最盛時には、和船22隻、風帆船14隻を所有し、米、砂糖などの運航を出雲方面で行っていたということもはじめて知りました。


 しかし、何か問題があったのでしょう。江戸末期か明治のはじめ頃、暴風雨で船が沈没したり、土蔵が火事に遭ったりで商売は傾きます。
 益三の祖父、治兵衛の代に商売を畳んだということ。そして、益三の父(私の曾祖父)の下田益太郎は自営ではなく、野村商店(現、野村證券の前身)に勤務する会社員であったということを展示資料で知ることができました。
  

 益三の幼少の頃、家業が傾き、時代の変遷もあったと思いますが、廻船問屋を廃業するのを見て育った益三は、どのような想いであったのか・・・。それは知る由もありませんが、祖父の治兵衛が謡いを習っていたのを、一緒に連れられていたことが能楽師になるそもそものきっかけでした。


       
              <展示品のひとつ、益三40歳の頃か?>


 わたくしは神理学の教えで、父方の因縁を強く引いていることを知っています。
 家業の物流業より、四柱推命はじめ占いに興味関心を抱くようになったのは、この祖父、益三の因縁を強く受けているのかも知れません。


 反対に、わたくしの父が下田家から田中家に養子に来て、家業の物流業を引き継いだのも、血筋といいますか、何か因縁めいたものを感じます。


 昨日は、わたくしのルーツを再発見できたような気持ちになり、新年早々、貴重な一日でありました。


 名古屋付近にお住まいの方で、能楽等にご興味があれば、一度、名古屋能楽堂に足をお運び頂ければ幸いです。
 なお、繰り返しになり恐縮ですが、この催しは1月31日までです。


 最後にこのような催しをして頂いた、東海能楽伝承会の皆様に心よりお礼を申し上げます。